空虚な記号でつながれた世界

アニメ・マンガなど

アニメ 少女終末旅行 3話

少女終末旅行は、新潮社刊「くらげパンチ」にてつくみず先生が連載する、ほのぼの日常系ディストピアコミックである。

 

この度アニメ化されてTOKYO MXテレビ愛知サンテレビなどで放送されている。

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作品の舞台は近未来。文明崩壊後の世界の中、廃墟となった巨大都市を登場人物であるチトとユーリの2人の少女が、軍服とヘルメットに身を包み、テッケンクラートと呼ばれる半装軌道に乗って地上を目指して旅する。

 

まず、世界観として文明崩壊後の世界をモチーフにしている。しかし作品全体の基調に悲壮感はなく、チトとユーリの「ゆるい」キャラが旅する途中で起こった些細な出来事や何気ない発見を、ただ陳列していくストーリーとなっている。

 

文明崩壊という大きな出来事は登場人物の精神に何らかのトラウマを植え付けるはずである。従来通りのアニメであれば、大きな出来事が登場人物の心に葛藤や煩悶を引き起こし、それを通じて登場人物(主人公)の成長や通過儀礼(大人になること)が描かれることが多かったように思われる(エヴァンゲリオンなど)。

 

しかしこの作品ではそのような出来事や成長は全く描かれず、すべての出来事が「終わってしまった後」の荒涼とした世界を、緊張感もなくただ淡々と描いているだけである。

 

そこには何の葛藤もなければ登場人物の成長もなく、全てが「終わってしまった後」の世界をただ淡々とサヴァイヴ(ただし生に対するリアルな執着や困難などはなく)するだけである。

 

これは僕たち(2、30代のオタク)の世界認識に近いものがあると感じる。

 

僕たちは、世の中を揺るがす重大な出来事(1968やバブル)を体験することなく全てが「終わってしまった後」の世界の中を、何の希望もなくさまよっている。そこには今の世の中に対する激烈な反発や抵抗心もない。ただ「なんとなく」「そうなっているから」世の慣習を受け入れて、「低成長&不安定な雇用環境」といった希望のない過酷な世界の中を「サヴァイヴ」するだけである。

 

積極的に向かっていく希望や目標があるわけではなく、そのような現実に対して楽天的ともいえるような態度をとっている(これは無邪気に現状肯定しているのではなく、「後は野となれ山となれ」といった現実に対するシニカルなデタッチメントであると僕は思っている)。

 

僕はどうしてもチトとユーリの2人に、僕自身の姿を重ね合わせずにはいられなかった。

 

 

さて、3話の内容である。

 

アニメ3話では冒頭部分、テッケンクラートを運転するチトが荷台に乗ったユーリに

 

『ねえ、ユー』

『人はなぜ生きるんだろうね』

 

 と問いかける。

 

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その後、チトとユーリは「カナザワ」と呼ばれる男と出会う。

 

カナザワは一人で旅をしており「地図」を作りながらバイクであちこち走り回っていた。バイクが故障したためにカナザワとチト達3人はしばらく一緒に行動することになる。

 

カナザワにとって「地図」を作ることは『生きがい』であり、それをなくしてしまったら

 

『きっと死んでしまう』

 

ほどのものであった。

 

その後3人はカナザワの地図を頼りに給油施設を経て上層へ行くための「塔」へたどり着く。

 

3人は「塔」に設置された昇降機に乗って上昇する。その途中、昇降機のワイヤーが引っ掛かり昇降機が片方へ傾く。その時、カナザワが『生きがい』として大切にコレクションしていた「地図」を収めたバックが床をスライドしてゆき、ついに地階へと向けて落下する。

 

カナザワは自らも死ぬ覚悟で「地図」を保守しようと跳びつくが、無情にも彼の『たからもの』は指先をすり抜けていき、とっさにカナザワに飛びついたチトとユーリによって彼は九死に一生を得る。

 

『離してくれ』

『僕も落ちるよ』

 

そんな言葉をもらす。

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その後、無事上層へと辿り着いた3人は、夕闇の中灯る明かりを見下ろす。そして傷心しているカナザワに向かってユーリは

 

『意味なんかなくてもさ、たまにはいいこともあるよ』

『だってこんなに景色もきれいだし』

 

と励ます。

 

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その後、彼女らと彼は別れ、別々の方角へ向かって旅を続ける。

 

 

 

 

カナザワは「地図」を所持して移動していた。「地図」を作成しながら、それを生きがいとしていた。

 

「地図」とは何だろうか。

 

「地図」とは現在自分がいるところを確認してくれるツールであり、自分がどこに向かって進んでいけばいいかを指示してくれるチャートである。

「地図」があればこそ私たちは道に迷うことなく、目的の場所へたどり着くことができる。

 

しかし、その地図をなくしてしまたらいったいどのようなことが起こるだろうか。私たちはどこへ向かって進んでいけばいいのだろうか?何のために進んでいけばいい?目的も方向も見失ってしまった世界の中で、どこに向かって歩き出せばいいのだろう?どんな意味がこの世界にあるのだろう。

 

「地図」=「意味」

 

カナザワにとって「地図」とは彼の生に「意味」を備給する源泉であった。「地図」を作成し所持することは、彼にとって自分の人生そのものを所持することと同じであった(つまり自分が今どこにいて、どこに向かって移動しているかを知っているということ)。

 

だから彼にとって「地図」の喪失は「意味」の消失、つまり生きる目的をなくすことを意味する。

 

それに対して、ユーリは言う。

 

『意味なんてなくてもさ、たまにはいいこともあるよ』

 

ユーリは以前(アニメ2話)でも、チトが大切に所持している本(『河童』)を燃やしたことがあり、その時

 

『記憶なんて、生きる邪魔だぜ』

 

と発言している。

 

ユーリは生来的に所有という意識が低く、過去を積み重ねていくよりも現在を炸裂させて生きていく傾向が強いように思われる(そのように設定されている可能性がある)。

 

だから彼女にとって「意味」=「地図」なんてなくても生きていけるのだ。自分がこの世界の中のどこにマッピングされているのかなんて確認する必要などなく、今ここにいる場所から世界を享楽することができるのだと思う。

 

ここで問いかけたい。

 

「地図」がないと不安だろうか?「意味」がないと生きていけないのだろうか?

 

僕はそんなことはないのではないかと思う。

 

実はいたずらに「意味」やら「目的」やらを追い求めることが、私たちの人生をとても貧しいものにしてはいないだろうか。あらゆる情報が飛び交う中、仕事や生き方についての「理由」や「目的」を是が非でも強要されることで、私たちの生存は果てしなく傷つき、隅っこへ追いやられて、矮小で卑屈なものになっている。

 

今の世界に求めるべき「目的」や「理想」があるとは思えない。一昔前ならそんなものもあったのかもしれない。でも今、それをもとめようとすることはもはや叶わない。

 

そんな世界で、いたずらに経済合理性や競争のために「理由」や「目的」を取り繕いながら生きていかなければならないことに、果てしない徒労感と無力感を抱えている。

 

「意味」を無くした時代。希望を無くした時代。私たちの生きる世界はあまり肯定的に言われることは無い。でも、それでもこの時代だからこそできることがあるように思う。少なくとも僕はそんな可能性の鱗片とも言えない鱗片にしがみついて、まだ何とか生きていようと思う。