空虚な記号でつながれた世界

アニメ・マンガなど

お兄ちゃんはおしまい!感想※ネタばれあり

『お兄ちゃんはおしまい!』は作者ねことうふ氏による漫画作品である。2023年1月から3月23日まで、スタジオバインドにてアニメーションが制作され、放送されている。

onimai.jp

 

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本作は、ひきこもりの兄が妹に薬を飲まされ、少女へと変身する物語である。

 

妹(緒山みはり)は、学業優秀、スポーツ万能(中学の時、陸上の県大会で入賞している)で、現在は大学に飛び級して、研究室に所属している。兄を少女に転換させた薬も、おそらく大学での研究に関連して作ったと思われる。年齢的には、中学の頃の同級生(穂月かえで―後出)が現在高校に通っていることからも、高校生ぐらいであると推定される。

兄(緒山まひろ)の年齢、来歴などははっきりしていない(年齢については、会話などから成人していることがほのめかされる)。物語はある日、兄(まひろ)が目覚めたら、少女に変身しているところから始まっており、男であった頃のまひろの容貌、年齢などの情報は、最初、一切与えられない。物語が進行するにつれ、過去の回想シーンから、昔の兄(まひろ)の面影、妹(みはり)との関係などが断片的に想起される。

まひろは、身体的には中学生くらいの少女に変身している。記憶や意識は男であった頃のままだが、身体的には少女化しており、身体に引きずられる形で、意識も徐々に少女化していく様子がストーリーからうかがえる。

たとえば、趣味の変化では、男であったころは、ひきこもりから想像できるような、エロマンガエロゲーを趣味としていたが、少女となってからはBLや少女漫画に興味を持つようになる。ほかにも、みはりが大学の研究のため、一夜家を空けるシーンでは、留守番を頼まれたまひろが、最初は喜んでいたが、次第に一人でいることに寂しさを感じ、翌日帰宅したみはりに抱きつく場面がある。

男であった時には、つながれず、孤独で、ひきこもっていた状態が、少女になることで、他人とつながることができ、社会的に更生されていく様子が描かれており、このことは、本作のテーマの一つになっている。

兄妹間の関係については後述するが、男であるから、兄であるからゆえに、常に自立していることを強制され、プレッシャーを受け続ける結果、孤立し、孤独になってしまうことが想像される。

反対に、少女となり、肩の荷を下ろし、兄であることに由来する束縛から解放されることで、立場や強迫観念に疎外されることなく、同性の少女同士の屈託のない関係性を、それ自体として楽しむことができていると、本作を見ていると思える。

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少女になったまひろは、しばらくすると、中学校に(再び!)通うことになる。学校内では、ボーイッシュな穂月もみじ(かえでの妹)、元気な桜花あさひ、百合好きの室崎みよの3人と多くの時を過ごすが、そこでは、成績に対する引け目や、しっかりしていなければならない、といった強迫観念は存在せず、少女同士の、同性間の関係性をそれ自体として楽しみ、大切にする様子が描写される。

あさひ曰く、まひろは「ぐうたらで、ポンコツで、人見知り」であり、学内でも、優等生というよりは、天然で、どこか抜けているようで、ふわふわとした、お姫様のような立ち位置である。

体育の時間のときには、まひろは男であった頃の記憶が抜けず、男子の目の前で着替えを始めてしまう。また、アニメ版では、男子トイレに間違えて入って、スカートをたくし上げたところ、自分が女であったことに気づき、急いで女子トイレに駆け込んだりしている。ほかにも、通学して初めての定期考査のときには、中学生レベルの数学の問題を簡単に解くことができるのをいいことに、対策を全くせず試験を受けたところ、数学については、大問1を解いたところで睡魔に襲われ眠ってしまい、他の科目については、もはやほとんど知識が残っていなかったことから、結局あさひと一緒に補修を受けることになる。

まひろの補修の事実を受けて、親友のもみじはショックを受けつつも、「・・・けどなんか安心したかも、まひろちゃんはやっぱりこうじゃないとね」と発言している。まひろも心の中で、「・・・そういや変に気張る必要ないんだった・・・」「ハードル上げずに済んだなぁ・・・」と、つぶやいており、優秀でなく、ぐうたらにみられることに、どこか安心感を覚えている様子である。

成績優秀な妹がいるあまり、常に妹と比べられ、劣等感を感じていたであろうことが想像される、兄まひろ。兄と妹の関係では、妹の手前、兄として、常にしっかりしていなければならないと、プレッシャーを感じていたであろうことが容易に想像される。しかし、少女に変身することで、兄という立場から要求されるプレッシャーや束縛から解放され、失われた人生を取り戻すかのように、友人たちとの時間や関係性を純粋に楽しむことができている。

男=兄であることのプレッシャー、束縛、プライドゆえの孤独と、女=少女であることによる、関係性の開放や、人間関係を求め、大切にすることの対立が、本作の一つの対立軸になっている。

兄―妹間の関係性の確執ゆえに帰結されてしまう、垂直方向のモメントと、少女間の即自的な関係性の共有による、水平方向のモメントの対立は、本作の深部を流れ、物語を織りなす、重要な基底音になっている。

 

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今度は、少女化したまひろの意識の変化について注目してみる。

まひろの意識は、男であった頃の記憶をとどめており、趣味(ゲーム)や性的な志向(巨乳への願望)は男の頃の影響を残している。しかし、一方で、少女として生活していくにつれ、徐々に女としての意識、思考、関係性の持ち方に、変化していっている面もみられる。前述の通り、エロゲーエロマンガから、BL、少女漫画への興味の変化もそれを裏付け、また、一人で遊ぶよりも、仲間で遊ぶ方が寂しくないといった、意識の変化も、同じく男から女への変化を裏付けている(冬休みに入り、久しぶりに一人でゲームをするが、どうも気が進まないところ、もみじ、あさひ、みよが自宅に訪れ、一緒に対戦ゲームをすることで楽しい時間を過ごすシーンがある)。

身体的にも、まひろは正確に女の身体化への影響を受けており、生理を経験したり、膀胱が縮小した結果、度々失禁をしている。

また、意識の変化に伴い、視線についても変化が生じていく。

体育の時間に更衣室で着替えるシーンでは、同級生の女子の着替えに混じることに、居づらさを感じ、また、女子トイレを使用するシーンでは、友人たちと一緒にトイレに行くことに恥じらいを感じて、結局家まで我慢することになる。

ここでは、まだ見る主体としての、男の視線の影響をとどめている。しかし、その一方で、衣服や髪形のアレンジを楽しんだり、化粧(リップ)をすることで、自主的に同級生の男子の視線を集めようとし得意となる様子は、見る主体=男から、見られる客体=女への変化を、表現しているようにも思える。

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アニメ版では、同級生3人組(もみじ、あさひ、みよ)と妹みはり、かえでの6人で温泉旅行に行くシーンがある。入浴シーンでは、さすがに女子たちと一緒に温泉に入ることにためらいを覚えるまひろであるが、もみじ、あさひにつかまり、湯船の中で体をくすぐられる。くすぐられている最中、折り悪くまひろの男性器が復活してしまう。焦りを感じたまひろは、みはりに自身のモノの存在を気づかせ、間一髪難を逃れる。

湯からあがったまひろは、みはりから、このままでは明日の朝には男に戻ってしまうこと、女の子のままでいるには薬を飲まなければならないこと、しかし薬を飲めば、当分男には戻ることができないことを告げられる。まひろは、妹の言葉を受け、このまま女の子のままで居続けるべきがどうか思い悩む。その後、みんなで雪景色の中、川のほとりで雪遊びをするが、まひろは一人、浮かない様子。まひろは、川の流れを背にして、少女で居続ける決断をし、薬を飲み干す。川の流れや雪景色が幻想的な雰囲気を醸す。ちょうど川の流れを背にして薬を飲むことが、男であるこちら側から、女であるあちら側への越境を、象徴的に暗示する。

「オレ、結構居心地がよかったんだな」とセリフを吐くまひろは、男として、または兄として、過酷な競争を生きる世界よりも、少女同士の閉じた、幸福に満ちた世界を選ぶ。それが幻想的な背景と相俟って、どこが夢のような心地を見る者に与える。幼さへの退行。その良し悪しはともかく、この情景は、美しく、幸福な世界を約束するような印象を、見るものに与えずにはおかない。

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まひろは、男でも、女でもない位置にいるように思える。意識的には、男から変化しつつありながら、完全には女になりきっていない。また、身体的には女体化しながら、ときおり、男のモノが復活する。思うに、女体化した元男とは男側の願望だろうが、それは男/女の区別を明確にしない。確かに身体的には女だが、それは女であることを意味しないし、かと言って、意識が男であるから、男であるということもできない。それは、男/女という区別に当てはまらない「中性」という立場を意味しているように思う。少なくない人が、異性の立場にあこがれることはあると思う。しかし、それは完全に異性になることを望む、というよりは、男でも女でもない、中性の立場から、両者を取り扱うことへ願望の現れではないだろうか?

本作でも、女になりきることを目的にするというよりは、男でも女でもない、不確定な存在として、両者から距離をとり、その間を往還することに、一番の妙味を感じているように思う。読者(視聴者)が一番面白さを感じるのは、この男でも女でもない位置を標的にし、アレンジし、楽しむときである。

男/女の区別に還元できない位置に、私たちの本当の欲望の源泉は存在するのかもしれない。

 

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みはりが兄に薬を飲ますことが無ければ、まひろが少女となることもなかった。みはりはなぜ兄に薬を飲ませ、少女にしたのだろうか?ストーリーからは特に理由は明らかにされない。しかし、幼少期から兄に対し、敬愛の感情を持っていたことは、回想シーンからうかがい知ることができる。幼いころ、兄に体を洗ってもらったこと、兄にクッキーを焼いてプレゼントしていたこと—。

幼い頃は兄が妹に優越していたことがうかがえる。しかし、中学のころから徐々に関係が逆転し、成績優秀な妹に対する、冴えない兄という立場になり、劣等感を募らせ、だんだんとひきこもりがちになっていった様子が暗示される。

兄(まひろ)―妹(みはり)の系列は、兄が少女となることで、姉(みはり)―妹(まひろ)に転倒される。少女になってからのまひろは、精神的にも幼くなったように見え、みはりの同級生で高校生のかえでに、姉のような親しみを感じたり、みはりから妹のように扱われ、世話をされることに、抵抗は感じながらも、まんざらでもない反応を示したりしている。ときおり、兄としての立場が顔を覗かすこともあるが、すぐに少女としての、妹としてのまひろに戻る。兄としてのまひろと、妹としてのまひろの役柄の交代が度々行われる。

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緒山家の家庭は、両親はともに海外に出張しており、家にはまひろとみはりの2人だけが暮らしている。両親と子の関係性を示すものは本作では描写されていない。

表現されている限りでの家族関係は、兄と妹だけで完結している。経済的には中流家庭であるように思われるが、兄妹2人だけで生活していて特に困っている様子はない。兄―妹の関係は、兄が少女になってからは、妹―姉の関係に変化し、時には娘―母のような関係をも呈する。みはりのまひろに対する保護は、母が娘に対するようなそれを時に連想させる。家族間の関係は、両親の不在を前提として、兄―妹、妹―姉、娘―母の間で往還する。兄―妹を原型とする関係は、各瞬間ごとに幾重にもずれ、変奏してゆく。そこにはエディプスが不在であり、父の存在が決定的に欠落している。

みはりは、妹—姉―母の役割を同時に担う。まひろの少女化の事実を唯一知っている者として、みはりは本作の物語の構造で重要な位置を占めている。みはりを中心として、兄の位置は反転し、家族関係は錯綜する。みはりの動機、その狙い、少女化してゆく兄に対する意識の在り方は、本作において謎に包まれている。しかし、みはりという折り目において、物語の構造的前提は収斂している。なぜ、兄を少女にしようとしたのか?兄に対する意識は変化しているのか?これらの謎はストーリーから明らかにされない。しかし、この謎が謎として機能する限り、前提が崩されず、物語が成立する。みはりは、本作において、物語を成り立たせる前提であり、過剰な存在となっている。

 

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男から女への関係性の変化、男と女の間での意識の位置の変化、そして、家族関係の変化、これらを分析の軸として、本作について語ってきた。コメディでありながら、いろいろと考えさせられる作品であった。

 

 

 

 

 

 

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~編集後記~

この感想文のそもそもの動機として、マンガ・アニメの形式で表現される内容と、現実の接点を明示する狙いがあった。作品は虚構であり、現実をデフォルメし、単純化したものであることは、ある点では事実であると思う。では、そこで表現されるものは、現実の劣化したコピー、現実に似せた作り物で、空疎な内容なのだろうか?その回答は、私には断言できない。少なくとも、スクリーンに、あるいは紙面の一画に映し出される際に、あるものを閑却し、あるものを特に取り上げようとする、その時点において、意識的に、あるいは無意識的に、ある現実を見るまなざしが存在するはずである。

私が現実を見るまなざしに対して、作品が前提とするまなざしがどこまで影響していて、その相互関係はどうなっているのか。これらを明らかにすることで、単に虚構をそのまま消費するのでもなく、現実との接点を明らかにすることが、そもそもの出発点であった。登場人物が語らないことにおいて、物語の現実を語らせること。それがこの試みの目的であり、これからの目標でもある。

 

アニメ 少女終末旅行 3話

少女終末旅行は、新潮社刊「くらげパンチ」にてつくみず先生が連載する、ほのぼの日常系ディストピアコミックである。

 

この度アニメ化されてTOKYO MXテレビ愛知サンテレビなどで放送されている。

girls-last-tour.com

 

作品の舞台は近未来。文明崩壊後の世界の中、廃墟となった巨大都市を登場人物であるチトとユーリの2人の少女が、軍服とヘルメットに身を包み、テッケンクラートと呼ばれる半装軌道に乗って地上を目指して旅する。

 

まず、世界観として文明崩壊後の世界をモチーフにしている。しかし作品全体の基調に悲壮感はなく、チトとユーリの「ゆるい」キャラが旅する途中で起こった些細な出来事や何気ない発見を、ただ陳列していくストーリーとなっている。

 

文明崩壊という大きな出来事は登場人物の精神に何らかのトラウマを植え付けるはずである。従来通りのアニメであれば、大きな出来事が登場人物の心に葛藤や煩悶を引き起こし、それを通じて登場人物(主人公)の成長や通過儀礼(大人になること)が描かれることが多かったように思われる(エヴァンゲリオンなど)。

 

しかしこの作品ではそのような出来事や成長は全く描かれず、すべての出来事が「終わってしまった後」の荒涼とした世界を、緊張感もなくただ淡々と描いているだけである。

 

そこには何の葛藤もなければ登場人物の成長もなく、全てが「終わってしまった後」の世界をただ淡々とサヴァイヴ(ただし生に対するリアルな執着や困難などはなく)するだけである。

 

これは僕たち(2、30代のオタク)の世界認識に近いものがあると感じる。

 

僕たちは、世の中を揺るがす重大な出来事(1968やバブル)を体験することなく全てが「終わってしまった後」の世界の中を、何の希望もなくさまよっている。そこには今の世の中に対する激烈な反発や抵抗心もない。ただ「なんとなく」「そうなっているから」世の慣習を受け入れて、「低成長&不安定な雇用環境」といった希望のない過酷な世界の中を「サヴァイヴ」するだけである。

 

積極的に向かっていく希望や目標があるわけではなく、そのような現実に対して楽天的ともいえるような態度をとっている(これは無邪気に現状肯定しているのではなく、「後は野となれ山となれ」といった現実に対するシニカルなデタッチメントであると僕は思っている)。

 

僕はどうしてもチトとユーリの2人に、僕自身の姿を重ね合わせずにはいられなかった。

 

 

さて、3話の内容である。

 

アニメ3話では冒頭部分、テッケンクラートを運転するチトが荷台に乗ったユーリに

 

『ねえ、ユー』

『人はなぜ生きるんだろうね』

 

 と問いかける。

 

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その後、チトとユーリは「カナザワ」と呼ばれる男と出会う。

 

カナザワは一人で旅をしており「地図」を作りながらバイクであちこち走り回っていた。バイクが故障したためにカナザワとチト達3人はしばらく一緒に行動することになる。

 

カナザワにとって「地図」を作ることは『生きがい』であり、それをなくしてしまったら

 

『きっと死んでしまう』

 

ほどのものであった。

 

その後3人はカナザワの地図を頼りに給油施設を経て上層へ行くための「塔」へたどり着く。

 

3人は「塔」に設置された昇降機に乗って上昇する。その途中、昇降機のワイヤーが引っ掛かり昇降機が片方へ傾く。その時、カナザワが『生きがい』として大切にコレクションしていた「地図」を収めたバックが床をスライドしてゆき、ついに地階へと向けて落下する。

 

カナザワは自らも死ぬ覚悟で「地図」を保守しようと跳びつくが、無情にも彼の『たからもの』は指先をすり抜けていき、とっさにカナザワに飛びついたチトとユーリによって彼は九死に一生を得る。

 

『離してくれ』

『僕も落ちるよ』

 

そんな言葉をもらす。

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その後、無事上層へと辿り着いた3人は、夕闇の中灯る明かりを見下ろす。そして傷心しているカナザワに向かってユーリは

 

『意味なんかなくてもさ、たまにはいいこともあるよ』

『だってこんなに景色もきれいだし』

 

と励ます。

 

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その後、彼女らと彼は別れ、別々の方角へ向かって旅を続ける。

 

 

 

 

カナザワは「地図」を所持して移動していた。「地図」を作成しながら、それを生きがいとしていた。

 

「地図」とは何だろうか。

 

「地図」とは現在自分がいるところを確認してくれるツールであり、自分がどこに向かって進んでいけばいいかを指示してくれるチャートである。

「地図」があればこそ私たちは道に迷うことなく、目的の場所へたどり着くことができる。

 

しかし、その地図をなくしてしまたらいったいどのようなことが起こるだろうか。私たちはどこへ向かって進んでいけばいいのだろうか?何のために進んでいけばいい?目的も方向も見失ってしまった世界の中で、どこに向かって歩き出せばいいのだろう?どんな意味がこの世界にあるのだろう。

 

「地図」=「意味」

 

カナザワにとって「地図」とは彼の生に「意味」を備給する源泉であった。「地図」を作成し所持することは、彼にとって自分の人生そのものを所持することと同じであった(つまり自分が今どこにいて、どこに向かって移動しているかを知っているということ)。

 

だから彼にとって「地図」の喪失は「意味」の消失、つまり生きる目的をなくすことを意味する。

 

それに対して、ユーリは言う。

 

『意味なんてなくてもさ、たまにはいいこともあるよ』

 

ユーリは以前(アニメ2話)でも、チトが大切に所持している本(『河童』)を燃やしたことがあり、その時

 

『記憶なんて、生きる邪魔だぜ』

 

と発言している。

 

ユーリは生来的に所有という意識が低く、過去を積み重ねていくよりも現在を炸裂させて生きていく傾向が強いように思われる(そのように設定されている可能性がある)。

 

だから彼女にとって「意味」=「地図」なんてなくても生きていけるのだ。自分がこの世界の中のどこにマッピングされているのかなんて確認する必要などなく、今ここにいる場所から世界を享楽することができるのだと思う。

 

ここで問いかけたい。

 

「地図」がないと不安だろうか?「意味」がないと生きていけないのだろうか?

 

僕はそんなことはないのではないかと思う。

 

実はいたずらに「意味」やら「目的」やらを追い求めることが、私たちの人生をとても貧しいものにしてはいないだろうか。あらゆる情報が飛び交う中、仕事や生き方についての「理由」や「目的」を是が非でも強要されることで、私たちの生存は果てしなく傷つき、隅っこへ追いやられて、矮小で卑屈なものになっている。

 

今の世界に求めるべき「目的」や「理想」があるとは思えない。一昔前ならそんなものもあったのかもしれない。でも今、それをもとめようとすることはもはや叶わない。

 

そんな世界で、いたずらに経済合理性や競争のために「理由」や「目的」を取り繕いながら生きていかなければならないことに、果てしない徒労感と無力感を抱えている。

 

「意味」を無くした時代。希望を無くした時代。私たちの生きる世界はあまり肯定的に言われることは無い。でも、それでもこの時代だからこそできることがあるように思う。少なくとも僕はそんな可能性の鱗片とも言えない鱗片にしがみついて、まだ何とか生きていようと思う。